昭和49年6月5日 朝の御理解 大坪かよこ
御理解第89節
此方の道は傘一本で開くことができる。
いと簡単な御教えですけれども、なかなか、いと簡単にはこの傘一本が頂けないと思うんです。
やはりけいこです。金光大神のお取次ぎを願い、また金光大神のお手代わりとして、布教になど出ます。そこにはもう自分というものはなくて金光大神のお手代わりというような観念がでけますところに、金光大神の働きがそこから生まれてくる。ね、いわばそれだけですけれども、その、自分というものがそこには空しゅうなってしまわなければでけん。ね、大坪総一郎がお取次ぎしてるんだという間は大したとことはでけません。けれども自分というものではなくて、金光大神がお取次ぎして下さるんだと、その金光大神の、いわば、お手代わりをさせて頂いておるだけだと、だから、大坪総一郎の感情などが入ったんでは、でけない。だから、此方の道はとこう仰る。金光大神の道は、金光大神が取次ぎ助けて下さる。
その手代わりがでけるようになれば、だからお取次の道は、傘を開くように、簡単に開けてくるんだというわけです。
ね、けれど結局自分を空しゅうするということが難しいのです。
昨日も、神愛会でしたから、先生方皆集まっていろいろ共励致しました。
四、五日前熊本の山田先生が、お弟子さんを一人連れてお参りしました。というのは大変な、あの、いわゆる気違い病院に入って、気違い病院でも手がつけられんで、どうもできないのを預かって、そして、修業させて頂いたわけですけれども、おかげを頂いてもう正常におかげを頂いた。もう朝、もうとにかくあの、合楽のいわばご信心を形の上だけでもそのままにというように朝の三時には、その女の修行性の人が起きて御神飯を炊いて、一生懸命、もうただ、信心するに有難い有難いの道をま、続けておると。
いうなら、山田先生のお取次ぎで助かったわけです。昨日もそのことを、もう、ほんとに恐れいってしまうとこう言っておるけれどもです、ね、そこにその山田静雄という先生が、その中に入りましすと、それは本当のことになってこない。やはり先生としては、金光大神のお手代わり、親先生のお手代わり、親先生のお取次のおかげで、ということはそのまま金光大神の取次のおかげで、ということになって行かないといけない。
ま、けれどもなかなか、やっぱり自分のところで特別なおかげを頂くと、どしてもそこに、私の取次ぎで助かったと、言うような気が強くなる。
ところがその、おかげの現れ方がね、もう実に合楽的であるところから、そこから、自分というものを、は、こりゃ自分の取次でじゃない、というふうに思わなければおられないような働きがあるわけですね。
合楽流、合楽的助かり、これも富永先生が言っておられましたが、今度の月次祭には、もうほんとに合楽的なおかあげを頂きました。親教会の先生が、月次祭に一辺か二辺か、そのお祭りを仕えに見えるそうです。
それがその、もう信者はあんまり好かんのさそうですけれども、やっぱ見えるから、ま、仕方がない、来るなというわけにはいかん。そいでまあ、おかげ頂いておるということですけれども、あん、私が、先生のお話が済んで、その後に私が挨拶をしてもらいよりました。そしたら、あの目が見えない人が、そのお話を聞いておられたら、目が見えるようになった。ほんとに合楽的なおかげだ、というて昨日話しておられました。
で、そういうたとえば、あの、不思議な働きというか、お取次の働きというものが、そういう不思議な働きになってくるわけですけれども、だから、金光大神の取次の道というのは、そんなにもま、言うならば簡単ですけれども、そこにはその合楽風におかげを頂いとりますから、こりゃ、ただ自分の信心ということを、ま、出てこない。いうなら、先生方自身の信心が空しゅうなる。ね、そこをま、合楽的とこういうわけでございましょうけれどね。
もちろん合楽的というそのことも、なら、金光大神の取次の働きなんだ、ですから、自分が空しゅうなるということですから、中々難しい。人間のひとつの自我とでも申しましょうか、どうしてもやはり、私が一生懸命骨折ったからとか、私が一生懸命お願いをしたからとか、というようなものがげ出てくるところに、垢ぬけのしない、おかげがすっきりしない、ということになってくる。
ね、だから自分というものを殺すというか、空しゅうしてしもうて、金光大神だけが現れなさるようになったらです、此方の道は、とこう仰る。金光大神の道は、いと簡単に傘を開くように、道が開くことができるんだというのです。
様々な難儀苦労して道が開けるというてもその、難儀苦労というのは、結局は自分自身を無くすることのための難儀、苦労なんだ。自分を空しゅうするというところに、私はその傘一本の意味があると思うですね。
ですから、その傘一本がいよいよ身に付いてしまうと有難い。
はあ、なるほどこう言う生き方でいきゃ、みんなもおかげ頂く、教会もおかげを頂くと、ね、そこにひとつの、安心というものが生まれてくる。
その安心が、自他ともに助かるということになる。
二、三日前に、茶の間の軸を取り換えてもらうように修行生にお願いしとった。
ちょうど時期ですからあの、なすの絵の軸がありますから、あれと変えてもらうようにお願いした。ところが探されるげなけれどもない。それで後、愛子に言われたけども、それでもない。それでまた翌日、私が言うてから三日目に、ようやく探し出したんですけれども、簡単なそこの共励殿の、に、あったとこういう言うわけ。
それで私が午後の奉仕をしておる時に、出てきましたというてここに持って来ました。持って来まして、ここへ持って来ましたから、私はちょうど、今月のおかげに泉を読ませて頂いておった。ちょうど読ませて頂いておるところが、ここを読みよった。
自然に溶け込むことは、自然を生かすことですと。自然に溶け込むということは、自然を生かすことです。その溶け込むということがです、ね、どうでしょうか、言うなら金光大神が、に、水であるならば、私どもも水にならなければ、溶けこめんのです。
ね、金光大神が水であるのにこちらが油であっては、溶け込もうにも、溶け込まれません。自然に溶け込むことは、自然をそのまま生かすこと、言うならそこに金光大神を表すことができる。生かすことができる。今日の傘一本で開ける道というのは、そういうことだと思うです、ね。
自然に溶け込む、そこにいわゆる金光大神の御信心の中に溶け込んでしまう。これは取次者である者の、に対するここは御理解だと思いますけれども、取次者が金光大神に溶け込む、言うなら、自然に溶け込むということは、天地金乃神様のお心に溶け込んでしまう、そういうことはです、神を現わすことになる、金光大神を現わすことになる、または親先生の信心に溶け込む、それは、親先生を現わすということになっていなければ、その溶け込み方は、まだほんなもんじゃないということになるのです。
親先生任せ、ということはあれは親先生に溶け込んでおることです。
ね、ですから、親先生が頂いておられるようなおかげを頂き現わすことができる。
おかげを頂くということは、親先生を現わすということに他ならないのです。
ね、傘一本ということはそういうことだと思う。そこでなるほど親先生任せにさえなっておけばというところから、生まれるのが安心でしょう。
金光大神任せにさえなっておれば、おかげが受けられると、その確信というか、そのおかげがはっきりと、ね、蓄積というか、それが積もり積もって、ご神徳となるのです。
だからそういう生き方を日々、私どもが、いわば、合楽の信心をマスターするというか、そういう信心を会得させて頂いて、それでもです、間違いはないか、ね、間違ってないかと、やっぱ自分というものを深く反省しながら、そこに答えを出していく、毎日毎日をです、そういう生き方を自分の身に付けて、そして今日一日もおかげを頂いたが、果たして間違いはなかったであろうか、間違っておるところは、お詫びをして、有難いという答えを日々出していかなければいけない。
ね、計算をするのに、いわば五と五と足せば十になる。だから十という答えが出た、ね、合っておるかどうかという時には、なら、五から、十から五をまた引いてみることによって、確かめることができるです。
ね、掛けたら割ってみる、割ったら掛けてみる、足したら引いてみる、引いたら足してみるというようにです、間違いがないかという、そういう生き方が、ね、私は安心だと思うです。
そういう言うなら間違いのない、御神護の中に、日々おかげを頂いておるから、そういう、頂いておることの中から起きてくる問題であるならば、その問題がどのように、たとえば難儀な問題とか、びっくりするような問題であってもです、どっこい、驚かんで済むわけです。
こう言う御神護の中に起きてくることだからと、思うからです。私は、いやー、おかげぞとこう言うことが言えるんじゃないかと思うです。
私のこれはいわば体験なんです。
いつの間にか段々そういう、安心がほんとのものになってくる。
それは日々そういうことに努めておる。金光大神を現わすということに努めておるから。ね、金光大神にいかにも溶け込んでおるようにあるけれども、果たしてこれで良いのであろうか、ほんとに溶け込んでおるのであろうかと、答えが出ておる。
ね、そこに金光大神を現わすというか、神を現わすというような働きが、そこにないとするならば、これはちょっとおかしいと思うて、計算をし直してみるというくらいなね、慎重な、ねいやそういう生き方が、楽しゅうなってくる。
そういう生き方が、身に付いてくるということが、私は金光様の信心の一番素晴らしいことだと。
ここでは茄子のお知らせを頂くと、安心とこう申します。ね、茄子は濃い紫、紫の色、色で頂きます時に、どんな心配事のときに、先日もある方が、一生懸命ここで拝ましてもらいよったら、目の前がもう、この紫の色で、目の前が紫の中でいっぱい、見事な紫の色になった。ああ言うことがあるだろうかと、あります。
真っ赤な色を頂くことがある。目をつむっておるのに、目の前が真っ赤になる。
真っ青になったり、黄なくなったり、そういうやっぱりお知らせを頂くことがある。
大変な心配を持っておられたんですけれど、も、いよいよ安心ですよと、言うておりましたが、ほんとに、ほんとに安心のおかげを頂かれます。
というようにね、茄子のお知らせは、あの、頂きますと、たとえば夢を見ても、一富士、二鷹、三茄子なんていうよね、茄子のお夢なんかは大変ね、良い安心の夢として、昔から言われておりますように、ここで茄子のお知らせを頂くと、安心とこう言われておる。
その安心が道を開いてくれる、その安心がおかげを頂く元になるのです。だからそのいわゆる茄子の軸のそれは、だから安心という意味なのです。
したら愛子がここへ持って来ましたから、ちょうど私はあの、それに賛を書きたいと思いよったけれども、どう書こうかと思いよるところへ持って来ましたんですから、ちょうど御結界の向こう側から、ずっと広げて、そしてここでこうやって書かせてもらった。
向こうから持たせて、それを私はこれを書かせて頂いたわけです。
その絵、軸を昨日も先生方に見てもろうて、そしてその内容をま、話すわけですね。
自然に溶け込むことは、自然を生かすことであり、これが、いわゆる一如の世界なのだ、ということを聞いてもらったんです。
ね、神様と一つになっておる世界なんだ。ね、神様、たとえばなら、そういう二日間も一生懸命探したけれど見つからなかった軸がです、ちょうど、二日目、繁男さんから頼まれて、また探したところが、簡単とこにあった、あったというてここへ持って来た。持って来た時私は、ちょうど、ここんところを読んで、あの、おった。だからその読んでおることをこれには書くべきだと思って、それを賛に書いた。茶の間にかかっておりますちょっと読んで見て下さい。
ね、もう実にこの自然に溶け込んである、溶け込んだというか、ね、自然を生かすというか、私は、んならそれが、ね、せっかくま、偉い人が書いた茄子の絵に、私が下手な字を書いてから、もうその軸をわやにするというなら、これはもう殺したことになるです。
生かしたこと、ところが私が書いたことによってその茄子も生きるならば、その軸全体も生きてくるというならばです、そういう自然のお取り計らいの中に、あっておるということ。探したけれどもなかった。二日間もまた、何人も探したけれどもなかった。三日目に出てきた。それもなら、神様の御都合、どうしてちゅうことはいらんということ。ちゃんと三日目に、私がこう、そういう、ここん、こういうおかげを頂くことのための三日間であったということが分るでしょう、ね。
あの、末永先生、茶の間にかかっとるからちょっと持ってきて下さい。
ね、だから、いと簡単なんだ、ね、此方の道は傘一本で開ける道ということ、いと簡単な、です。ね、、たとえば今日、今の話もいと簡単なんです。しかしそれまでには、溶け込む修行がなされておるということです。ね、だから、一言、二言だけが神様任せではなくて、ね、全体が神様任せの生き方というものを身に付けて行く。その身に付けて行くというてもです、ね、それを果して溶け込んでおるのか溶け込んでいないのかということは、その現れてくるおかげを見て行けば分るのです。
いかに親先生任せというておってもです、ね、ほんとなことでないと、答えが出てこない。違うてくる。
ね、だから、どうして違ごうたじゃろうかというて、それは、計算を間違えておるからだということに気付かせてもろうて、生き方をまた改めて変えて行く、計算をし直していくというところからです、ほんとの答えが出るようになる。しかも段々、出るようになる。ね、もうそれはね、自然の働きというものは、もう素晴らしいです、ね。
先日から、浪花節に、の、切符を頂いておった。
それが当日になって、それが紛失しておることが分った。
そこへ掛けて、ね、だからそういう時にです、ね、そりゃもう行くことに決めておったから、もうそれを押し切って行く、ということは、自然に溶け込むということではないです。人間ですから、我情が出てくる、我欲が出ておる、ね、その我情がです、出ておるから、これはやっちゃいけん、それはもう神様が取り上げなさったと言わんやおられないほどしにですね、その後あのちょうど東京のお父さんが見えておりましたが、東京のお父さんの部屋にあったんですから。あの切符が、もうどげんしていっとっとやら分らんとです。
ね、だからそういう時には、結局、なら、無理せんな、は、神様が行くなと仰とるなというて、おしいけれども行かんでおかげを頂くと。
昨日は、東京のあの文楽が久留米に来ておりました。
だから、七名、七枚頂いてましたから、ちょうど、それを頂いたときに、おった方たちばっかりで、一名、久富正義さんだけが、行けんということであった。
けれども実際は、行けたんです。ね、
そして帰り道、正義さんのいつも行きつけの料亭で、一杯呼ばれて、夕べ帰って参りましたが、もうその何というですか、心に安らぎと、いわば、安心と喜びを持って、それを鑑賞するころがでける。
昨日は美の追求ということを頂きましたね。
昨日は何とはなしに、そういうその美的なものに触れる一日でした。文楽もそうですけれども、あの、共励殿の大テーブルの上に、見事な、それこそ見事な、あの、なんですかね、テーブルセンターですか、それを頂いて、今置いとります。
また一段とあの大きいテーブルが生きてきたという感じです。
ね、そういうふうに、こう、たとえばおかげというもの、ははあ、今朝の御理解がもう如実にです、現れてくる。ね、そこに私ども、ま、今日たとえば久留米に文楽を見に行くと、と言いながら、その文楽を見に行くということそのこと自体もです、も、神様のおかげでやらせて頂いておるという安らいだ気持ちで、行って帰ってくることができる。
ね、だから、ほんとにこの信心生活というのは、こうしちゃならん、ああしちゃならん、じゃないけれども、自然のそうした、働きの中にいつもそれに便乗していきながらの生活をほんとの意味での信心生活だというふうに思うですけれどもです、なるほど、ね、傘一本で開けて行く道だということです。
ですから、その傘一本を頂くまでが、私は修行だと、それは傘一本頂くということは、どういうことかと言うと、ね、いうならば、自然に溶け込む、金光大神に溶け込む、親先生に溶け込む、ね、そういう心の状態を頂けた時に親先生を現わすほどしの、親先生と同じようなおかげが受けられるし、金光大神と同じような働きをそこに現わすことができるし、天地乃親神様のお心次第、お心任せの、いうならばおかげを頂きとめることができるのだ。だから自然に溶け込んでいく、自然に溶け込んでいくということがです、ね、金光様の御信心だと私は信じております。
ね、それはそのまま、自然を生かすことになるのです。生かすことになっていないならば、まだほんとに溶け込みがでけていないんだというふうに、反省しながら、そこんところを身に付けていく。
皆さん、どうでしょう、いまそん軸を今ここに持ってきているんですが、あの、その茄子がどうでしょうか、生きた、生きてるでしょうが。ね、そういうたとえば、前後の事情のことからです、それを書かせて頂いたところからです、ね、その茄子の絵を、その私が書いておる賛が生かしておるならばです、いま私が申しましたような、働きがそういうふうに現れておるというふうに、聞いて頂いていいと思うです。
そしてその茄子の絵に、その、自然に溶け込むことは自然を生かすことであるという賛が、その茄子にぴったりした、賛だということが言えるのです。
そこにはもう一分一厘の狂いも、間違いもない。ちょうど二日間なら、三日間なら三日間この軸がなかった。なかったこともだから、そういうお計らいの中に、なかったのである。目の前にあったんだけれど気が付かなかったというのです。
ね、だから、そういうならおかげを受けるというその過程の中にもです、そういうたとえば二日間探さななきゃならないというようなところもあるのです。だから、そら楽しゅう探したらいいわけなんです。誰がどうせにゃんとじゃろうか、あんたどんがろくそなかけん、そげなこつて怒ることもいらないということなんです。
ね、いと簡単な、もうそれこそ、高いところから低いところへ水が流れるように、それこそ、ね、水と水が一緒になるように、ね、もう、何の変哲もないような生き方の中にです、はっきりと、神様を現わし、生き生きと現わしていくことができれる道である。
ね、そういうところを、私は此方の道は傘一本で開くことができる道だと、金光大神の道はそういう道だと。それは金光大神に、いうならば、帰依する、金光大神に溶けこむということ。それはそのまま金光大神を現わすことになる。
自然に溶け込むということ、自然の働きそのものに溶け込むということ、そこに成り行きを大切にするという信心もまた生まれてくる。自然に溶け込んでいく所に、自然が、自然に生かしてくる働きが生まれてくる。
その働きが、何とも言いようのないほどのです、ね、それこそ霊妙不可思議なまでにそれが、そういう働きを日々現わしていくことのできれる生活を金光大神の信心の生活だというふうに私は思うですね。どうぞ。